栗のはなし ‘ The inside story of chestnuts ’

すぐ近くの雑木林に、ひっそりあるのは知っているけれど、特段意識することのない栗の実、栗の木。
モンブランケーキの美味しそうな姿を目の当たりにして初めて、そしてそのケーキを味わって、栗の実をほんの僅かに、栗の木をほんのかすかに思い出すのでしょうか?
ましてや、栗の花をご覧になる機会は、ほとんどありませんでしょう。

  

  『それで二人だけで栗などをほろほろと音をさせて食べ始めたのも、 
   薫には見慣れぬことであったから眉をひそめられ、
   しばらく襖子の所を退いて見たものの…』

これは平安の貴族社会を描いた源氏物語第49帖「宿り木」に紫式部がしたためた思い出。
庶民が味わう『栗』です。

  『風でも吹いて栗の枝の揺れるやうな朝に父さんが
   お家から馳出して行つて見ますと「誰も來ないうちに早くお拾ひ。」と栗の木が言つて…』

大正9年(1920年)の島崎藤村の「ふるさと」にも。木曽出身の藤村だからこそ、やっぱりそこには栗の木がありました。

  『近年、村の柿の木も、栗の木も、熟れるまで実がなっていたことがなかった。
   みんな待ちきれなかったのだ。』

第二次世界大戦を生き抜いた壷井栄が戦争の苦難と悲劇を描いた「二十四の瞳」にも、庶民の生活を映す鏡として「栗」が愛されています。

栗は縄文時代には生活の身近に存在し、日本にある最古の栗の木は樹齢800年以上とも言われています。
浮世は儚い夢と言いますが、1000年の時を超えて、栗の実を、栗の木を、庶民は生活の中に見てきました。
私どもが、手にし、愛で、想う栗とはそういうものです。



日本の栗=和栗は、野生に自生していた「芝グリ」という小粒の栗を改良に改良を重ねて、今の秋の味覚には欠かせない立派な栗になりました。

栗の栽培はとっても大変なんです!

ここ城川では、そのほとんどが傾斜地で栽培されており、急斜面を行ったり来たり手作業で収穫。早朝から夕方まではお構いなしに落ちてくる栗拾いに追われ、夜には大切な選別作業が待っています。
でも、条件が厳しい傾斜地だったからこそ、他の作物にとって代わられることなく、味の良い栗になったとも言えます。
ときには、台風や干ばつに襲われ、そして今は強敵の‘イノシシ軍団’にもやられます。
ただただ真面目に辛抱強く…。

本格的に栗の栽培が始まったのは、まだまだ田畑の価値が絶大であった時代にさかのぼります。
当時、数名の若い農家が貴重な田畑を壊し、新たな取り組みとして栗栽培に着目しました。
始めた当初は、周りからの奇異の目にさらされたと言います。
そんな逆風の中にあっても、果樹試験場などとタッグを組んで、根気強く続けた甲斐あって、栽培方法が確立でき、栗の産地と言われるまでに成長できたのです。本当に、先駆者たちのご苦労と熱意には頭が下がります。

私たち城川ファクトリーにできることは、その先人たちの築かれた‘和栗’という財産を、想いを、いろんな形で紡いでいくことだと思っています。